
cadran (カドラン) Akiraへインタヴュー
cadranを描きはじめたきっかけは?
ずっと色彩、色彩で4〜5年やってきて、水晶画が一段落して、3年ほど前になんとなく違う方向へ行きたくなって、自分の描いた色彩のあるものをぜんぶ部屋からはずしちゃったことがきかっけかな。それでモノトーンの光と影だけのものに部屋の中を作り変えた。今のcadranがあるところ、白い壁に黒の額だけをだーっと並べて。紫のもっと外側とか赤のもっと外側とか広げたときに、光と影になっちゃった、陰陽の極。結局は、実体があるものとないものとか、色の周波数みたいなものに持っていくと、真っ黒、色の黒というかもっと闇になっていくの。それで、全部色彩を混ぜたときに、光を研究してたから、ぜんぶ混ぜると真っ白になっちゃう。その二つになっていったときに、漆黒の世界を描きたくなった。白と黒で描きたいと思った。3〜4ヶ月はその状態でいたんだけど、イメージ、印象とか常識とか、自分の生きていくうえで何に人は縛られていくか、何に縛られて自分の価値観が出来上がっていくか、というほうに意識がいっちゃったの。子供の頃に怒られたこととか、先生に言われたこととか、そういうところから価値観が出来て、その価値観を応用していくときにまた新しい価値観が生まれていって、今の自分の善悪の常識とかいろいろ出来あがって今いるんだな、というのがわかったのね。それを絵で表現することを今までやっていたんだけど、そのイメージの中でそれぞれの人たちのその出来上がり方が全員違うんだ、じゃあ何でそれが出来上がっていくかというと、言葉だったり目から入ってくるものもあるんだけど、言葉というのは重要な位置をしめている、字で勉強して覚えているものってあまりないんだけど、人の数だけ同じ言葉でも印象が全員違う。ただ、今までは自分が見たイメージを絵にしてきて、1人称を人に見てもらうやり方だったんだけれど、それを見て皆さんどう思いますか?感じますか?というものだったんだけれど、今回はそれぞれの人の中にあるパーツの一つを標語として出す、それで、それぞれの人がそれぞれの心の中にある映像に見てもらう、一番やりたかったことはそこから発信して、cadranの結実というのは、イメージを見てもらう、から、描いてもらう、ということにおもしろみがあって、それぞれが思い描くビジョンを持ってもらう、というのがcadranのスタートの原点。
cadranの方向性
今は四字熟語から始まっているけれど、シンボリックなマークであったり、絵文字、人によってはある形を見たときに非常に何かをイメージする人が出てくるから、cadranはいずれいろんな方向へ進むと思うんだけれど、まず日本人特有の文化的な部分からイメージするものって、日本人はテレビ見てても新聞読んでても、四字熟語にしたがるところがあることに気づいたわけ。自分自身も四字熟語ってすごくイメージしやすいし。それで額の中に四字熟語を一個一個はめ込んで自分が見るために作っていったわけ。正方形の中にしっくりくる形で配置して自分で作ったんだけど、それがたまたま書でいうとはらいこんでみたり反対側だったり。そのときから自分がイメージしやすいものってやったときに、たとえば自分を表すもので、一番最初に描いたもので、絵描きとか芸術家って「自画自賛」だと思うし、僕もそうだったわけ。「自己満足」とか、そういう世界が芸術って多いじゃない。「自画自賛」を描いたときにすごくおもしろくて、その次に描いたのが「優柔不断」で、自分の中にあるもの「他力本願」とか、非常に最初のほうってネガティブなイメージがあるものって皆に言われるけど、自分としてはそうならないように、自分で眺めて認識してそうならないように、意識できるように描いたのね。それが3点、4点できるうちにおもしろくなってきて。そのうち言葉があふれるように出てくるわけ。四字熟語ってこんなにあったんだって。それを家に飾って、遊びに来てくれる人が「あれ、なんですか?」って聞かれて「"自画自賛"なんだよね」って聞いたらぷって笑えるよね、っていうそれがおもしろいかもって。今の書体は、以前に自分の落款を石で作ったときからあのスタイルは自分で持ってたんじゃないかと思うんだけどね。基本は添書体というものが絵文字的で好きだったから、それを自分なりにあの枠の中にバランスよく配置するというスタイルですね。
まず、四字熟語自体が自分の頭の中でいっぱいになって、その四字熟語は過去に自分で経験したものがいっぱいイメージで出てくる、それは僕に限ったことでなくて、見た人がたぶん同じようにイメージしてゆく、て思ったときにもう少し大きなビジョンが出てきて、今までは自分が見たイメージを描いてきたけど、今度は見た人がそれぞれのイメージを描いてもらう絵としては「言葉」というのは非常におもしろいと思ったのが12作品目くらい。今は150作品くらいあるけれど、10作品くらい描いたときに起こったことは、見に来た人たちが家に帰ってから「頭の中が四字熟語だらけになるんです」というメールがよく来るようになったのね。それがおもしろいな、と。だから僕だけじゃなくていろいろな人から四字熟語のメールが届くようになったの。その中でおもしろいな、と思うものを描いていった。
自分の潜在的に、日本人だから漢字があって、その日によって気になる漢字が違う。意味がある漢字としてじゃなくて、デザイン、シェイプ的に見たときに「これが気になる」というそういうときは右脳によって判断してる気がする。ダウジングじゃないけど、自分の何かと反応してるかんじだよね。何十作品か作っているときに、これ、ハンカチでもちたいな、とか風呂敷にしたいな、とかそういう形で発生してきた。だから外国人って漢字の意味はわからないから形、デザイン、シェイプで「これに引かれる」って判断するでしょう、それが後から意味を知ったときに「自分にぴったり」とか「思っていたとおりの意味だった」って思ってくれる場合がすごく多いわけ。これって言葉の意味を越えたその文字、形が持つ「波動・周波数」なんじゃないかと思うんだけどどうなんだろう。個人個人で受け取り方、イメージするものは違うから、そこもまたおもしろいんだけどね。
素材へのこだわりは?
水晶画を描いていたときに、ベースになるボディがどれくらい出来上がったものに影響するかというものがわかっていて、自分がボディとして選ぶなら、正絹や麻、和紙でも麻の和紙になると感じてた。何の気なしに、昔テストで買った紙がそれだったんだけど、書いてみたらすべて滲んでしまう。書としてはそれはそれでおもしろかったんだけど、自分がcadranでやりたいものではなかったので、粉を使うようにした。粉の中でももっとも黒いもの、闇に近いと思える色が松の墨だったんだよね。麻和紙との相性もよかったし、自分でも一番しっくりきた。
原画がもっているイメージと、デザインシェイプからイメージするもの、出てきたものってその人のものだから、それが無限に広がっていく可能性がおもしろいなって。
それをずっと続けてきて、あるときコンセプトを考えていくといきに、自分の中で面白い感覚だったのは、今まで自分では「どこかで聞いたことのある四字熟語」をできるだけわかりやすい形で描いてきたんだけど、人の経験の時間軸ってかならず過去でそこで見ていくんだけど、未来軸、新しい価値観を作っていくようなものを、過去に経験がないからその文字や言葉を聞いたときにほんわかしたイメージが出てくる、それが共有できるようなものを作ったらひょっとしたら未来軸上に何かが出来上がるような気がした。たとえば、コンセプトアートとして「有機思考」とか新しい造語を作ったときに、未来軸で見てもおもしろいものを作っていけるんじゃないかなと思ったんだよね。これから先に受け継がれていくような四字熟語や、いま現状が乱れてしまっているから生まれる四字熟語は50年後に「こういう時代だったからこういう言葉が出たんだね」って受け取ってもらえる、今僕らが使っている四字熟語だってどこかの時代で生まれたわけで、昔の四字熟語に固持してたら今の時代のものがスポンと抜けちゃうんじゃないかと。造語としてコンセプトワードとして一つの方向は作ってみたいですね。なかなか難しいですけどね。
展覧会のコンセプトは? cadranをどう表しているのか?
展覧会のコンセプトは自分でイメージを描く空間作りをしたい、と思って作りました。一つのcadranを一作品だけ見て判断するのではなく、空間自体に入ったときに自分があの空間の中で何を選ぶのか、それを見たときに何をイメージするのか、というのを直感にまかせてうろうろできる空間にしたかった。一周回って、あそこが気になるからまたあそこに戻って、とか自由に動ける空間にしたかった。「何か気になりますか?」って。
1次元が点で、2次元が平面で、3次元が立体で、4次元が時間で、5次元が意識で、という認識を僕はしていて、絵画の場合は2次元で表現していて、会場作りをすると3次元まで表現できる。cadranの場合は、それを見た人は時間軸の中で自分のイメージを描き始めて、それを自分のイメージとして意識として描き始めると5次元までいける。1人の人が1次元から4次元までの経験を自分のイメージの中で遊ぶことができる。絵画だとイメージを固定させてしまう危険性が高いんですよね。4次元までイメージすることができづらかった気がしますね。cadranはそこをさらに高いところまでイメージして持ってもらえるんじゃないかと思っています。
姫様の場合は「歌」は入ることで5次元までイメージしてもらえると思えるんですけどね。
単純な話、正三角形を見たときにイメージをしやすい人、○をみたときにこういう気持ちになる人というのがたくさんいて、形からイメージが膨らんでいくものってたくさんあると思うんだけど、僕はイギリスの畑に幾何学模様があるものあるじゃない、宇宙人が書いたみたいなやつ、あういう絵柄を見るといろいろなものがガンガン出てくるんだけど、いろろなものを調べちゃうくらい、不思議だよね。
そういうイメージが一個人のエゴじゃなくて、それぞれの人が持てるような、自分のイメージがそれぞれ出てくるじゃない、そういうものにしたいな、と。
四字熟語であっても、見て気持ちのいいものじゃないとよくないなと思うから、色にこだわっているのでもなく、最初は自分がそういう感覚だったから白黒になったけど、いろんな色があってもいいと思ってる。白黒の配色が辛い人もいるし、淡い色で違うイメージに映ることもあるから、その辺は自由でいいと思っています。
展覧会のテーマが「ノワール・コントゥール:黒い輪郭(フランス語)」だったのね。黒い輪郭を見たときに「あなたは何をイメージしますか?」というものだったの。その中にあなたの5次元を描いてくださいっていうね。
その人にとっての「過去のビジョン」、「現在のビジョン」、「未来のビジョン」を作品にしたかったの、て、かっこよくいうとそういうことなの(笑)自分自身がそうだったから。
「人間だから」っていう部分を、押し付けがましくなく出したいし、自分で内観してもらうっていうね。
僕自身、四字熟語を部屋に飾るタイプではぜんぜんなかったんだけれど、自分自身にとって何か大切なのか、というのがわかるもの、飾ってあてても身に着けてもっていても、抑圧的じゃないものがすきかな。「こうしなさい」とか、なんかやなの。「こう生きねば」みたいなの。もうちょっと気楽でいいなじゃいの?って。
「多分平気」とかね、多くの人が反応してくれたものなんだけど、今の世相を表しているなとね。
cadranは自分にとっての基準値、男でも女でもなく。時代性わかるし、年代によっても違うし。おもしろかったのは外国の方が見たときにまったく日本人と反応が違う。デザインとしてしか反応しないから。
四字熟語、絵文字、数字とか、ラッキーナンバーを持ってる人とか、ラを聴くと安心するとかいう人もいるでしょ、そういうパーツを自分で組み合わせて、「自分にとってこれは何なんだ」というものを作り上げて、それをお守りじゃないけど、何か意識することで生活や何かが変わってくるとか、いい気持ちになれるものを自分で作り上げる、そういうものにしたいし、発展していったらすごいなと思います。
パーツは完成したから、自分でそれで遊んでっていう。
「人生ゲーム」を作るのではなく、「トランプ」を作る感覚。自分で遊び方を考えられるもの。自分で工夫するもの。昔はそういうものがたくさんあったんだけど、今は少なくなっちゃった。単純なルールなんだけど、それで大はしゃぎして遊べたりしたんだよね、昔は。cadranはリモデルをどんどんできるもの、進化形であるものであってほしい。
今後の展開は?
水晶画を完成させたときに思ったのは、技法なんて「こういう描き方をしました」とかその人が死んだときに「こういう技法で描いた人がいました」というくらいのものだから100年先くらいのものなんだよね。でも100年先のスタンダードになるものを作り出したいと。ポロシャツとかワイシャツとかスーツの襟だとか、完成されたもの、永遠のスタンダード、もうこれ以上足し引きできないもの、そういうものが日本にはいっぱいあるのね。扇とか。これ以上崩しようがない、完成されたもの。竹の先がぱちっとはまる、日本人独特の完結方法なの。日本人特有の、湾曲を作ることであそこでぱちっと収まるの。アレ以上のものはないね。着物の型もそう。折りたたむとすべて四角で収まる。3次元から2次元に収めるという。お茶の茶せんとかね。完璧でしょう。日本人はその感覚を持ってるんだよね。
長い時間を積み重ねてたし引きされて完成されたものって完璧なんだよ。
完成されたものを人が作れるとしたら、それは神の粋。そういうものは日本にたくさんあるわけ。日本語もそうで、世界で一番難しい言語っていわれるくらい、日本語の言葉や表現方法も積み重ねてきて、含みがあったり、というのも同じようなエッセンスで作っているから、一つの事柄を広範囲で伝えるために出来上がっていった四字熟語はすごくコンパクトに引き算ができないところまで研ぎ澄まされていったんだけど、表現するものはいろいろなものを表現できるものであるはず。ガウディの建築は素晴らしいっていうけど、あの時代、宮大工であの粋を理解していた人は日本に100万人いたわけ。日本人だからいっちゃうけど(笑)
cadranの字を「もっとわかりやすく書いてほしい」という人もいるんだけど、あれはわからないからこそおもしろいところがたくさんあると思う。たとえば、なぜかわからないけどこれを選んだというのは、その人の中の何かが反応したからで、そのあたりのことを楽しんでほしいな、と。既成概念をとっぱらったところの「なんだかわからないけれど」というのをね。
僕も自分のこと知りたいし、皆もきっとそうだし、自分のこと大事だし、そのことをわかるパーツとしてcadranを使ってほしいと思う。
鏡だよね。今までは自己満足の鏡を作ってきたけど、これからは人へ向けた鏡。
「自分はこうありたい」というものを捨てないと、本当のものはできない。
姫の絵は12枚あるんだけどぜんぶ対なの。月姫の正面は零姫だし、凰姫・龍姫、炎姫・水姫、結姫・写姫っていうふうに。月姫の「心影を・・・」の歌は、心の影をちゃんと見ていかないと零のバランスを取れない、という意味なんだよね。明るい心の自分でいるために押し込めている暗い部分を見ていかないと、むなしいんだよね。なんかはしゃいでる自分とかね。
一貫してこういうものがあって、ネモのふくろうのシリーズもこれから出ていくのだけど、あれにも時間軸は関係していて、1700年代の叙述詩を書いていて、象徴的にはふくろうにしているのだけど、精神的な姫様の世界とは対比した物質界の成り立ちというのが実際問題、叙述詩として、それもあまり的確に認識できる説明書ではなく、バベルの歌にしても、なにかにひっかかたときに自分で調べて自分で理解していくものにしていきたい。
「自分でしていく」というのがすごく重要なもの。誰かに教えられたものではなく、自分で知って判断するもの。「いいこと」のウラにある「影の部分」をみることで、「全体として何が起こっていたか」ということが判断すること。現実のところで、自分が生きているシステムの中で何を大事にしてどう生きていくかというのか、ということを自分で判断したい。それを考えていたら作品になっていったし、自分にとっての作品になった。
僕は何かを変えたいと思ったことはなくて、知りたいという気持ちでやってきていて。
「人の意識」が変わることで世の中が変わっていく方向へ動くんじゃないかな、と思う。
その現象に対してシステムや政治や経済を作ったり、というのが後づけなんじゃないかと。
「cadranで遊びませんか?」
あのね、今ココア受け取ったときにはっきりわかったんだけど、姫様を描いたときもネモを描いたときも、自分が何をしたいか、というと「ゲーム」なんだと思った。cadranをその人にとってどういう遊び方をしますか?ということなの。こちらからcadranとはこういうものです、と出してしまうのはどうかな?って。たとえばさっきのトランプだけど、トランプをインテリアとする人もあるけど遊びに使う人もいる。自分なりにはいろんな意味づけがあるんだけど、それはどうでもいいことで、こういうものがあるけど、あなたはどうこれで遊びますか、というのをやりたいのね。自分が遊ぶ道具を作ったという感覚かなぁ。自分を知るために、自分の道具をいくつか作ってみてよくわかったと。今の感覚は「これでどう遊びますか?」という問いかけ。それがやりたくてバリエーション増やして作ってきて、それがやりたかったんだ!うん、今わかった(笑)作り始めてちょうど2年。自分なりのゲーム場を作った。アミューズメント。ネガティブな言葉をネガティブにとらえようが皮肉でとらえようが明るくとらえようが自由。あーなんか、完結した。よかった。芸術的に捉えてもらってもぜんぜんかまわないんだけど、自由に、図柄の複雑なトランプみたいな感じでとらえてほしい。
その人の意識の中で遊べるからずっと遊べるし、完結しないし、たぶん。ぜんぜん遊べない人は遊べないし、いろいろなものが生まれる。その原型となるものなんだよね、cadranは。たとえば、科学者は元素記号で遊べる人も出てくるだそうし、アミノ酸は化学のほうでこれを4枚揃えてこっちを4枚揃えるとこういうアドレナリンの形になるんだよね、と遊べるゲームになるし、国文科の人は四字熟語で遊べるしね。
文字や絵は人間特有のもの。大昔の人が洞窟に絵を描いたのは、「書きたくなったから」なんだよね。人は「表現したい」生き物なんだよね。それが他の動物と違うところ。そういう人間の本能を、cadranというツールを使って、皆それぞれの方法で表現して遊んでいってほしいかな。

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